日光街道を自転車で行く > 基礎知識とQ&A > 街道の歴史
そもそも道はどのようにしてできたのでしょうか?
道の起源には、いろいろな説があり今となってはどれが正しいのかはわかりません。
たとえば、
などが主な起源とされていますが、いずれにしても人や動物が食料や水を求めて踏み固めたものが道の起こりと考えられています。
その後、弥生時代になり集落が発生すると人が積極的に道を拓くようになります。
米などの農耕が発達し、集落間で余った生活物資の交換が盛んになり交易のための道が必要になったからです。
そして道は、集落と集落、地域と地域を結ぶものになったのです。
生活のために自然発生的に整備されてきた道ですが、大化の改新(645年)で律令国家が成立すると、国による整備へと変わっていきます。
大化の改新(改新の詔)では旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備しなおし、天皇による統一的な支配体制への転換が図られました。
それに伴い朝廷の支配が及ぶ全国を以下のように区分します。
これを五畿七道といい、それぞれ同じ名前の街道で結ばれていました。
また、交通・通信の手段として駅馬、伝馬制を定め、30里(16キロ)ごとに駅家を設けられ、それぞれに通信・輸送機関としても設置されます。
これにより中央からの政令の伝達や地方からの報告や連絡などが行われ、朝廷の地方支配を支えたのです。
このころの道は、まだ地方支配のための道ですね。
律令国家の崩壊とともに古代の駅制は機能しなくなり、鎌倉時代には幕府がある鎌倉を中心とした道の整備が進みました。
鎌倉時代には地方から鎌倉へ至る鎌倉街道と称される道の整備が行われました。
年に一度あるいは半年に一度鎌倉大番役(将軍御所などの警備)を勤めなくてはならない東国(常陸国も含む)の御家人や、領地争いの訴訟を抱えた地方武士などが往来したといわれています。
その後、鎌倉幕府が滅びると、街道の整備は各大名独自のものとなります。
整備方針は各大名ごとに異なりましたが、原則として本城と支城の兵士の移動、軍需品の輸送など軍事・政治上必要と思われる道の整備が優先されました。
戦国時代には、各分国はそれぞれに自給自足の経済圏を確立しなくてはならなかったため、地方経済が発達し城下に通じる交通の要衝に地方都市が発達します。
ここに至っても、まだ街道は庶民の物ではなく、あくまでも国を治めるために整備されています。